深い深い闇の底。足下から這い上がってくる真っ黒な手が、カリュクスの細い手首をつかんだ。ぞっとするほど冷たい黒い手に、みるみる体温が奪われていく。  空気は淀み、灯りもない。目をこらしても先は見えず、いくらもがいても足は動かない。 黒い手は足を体を首を、少しずつ全身を覆っていく。  助けて!と叫ぼうとしても声は出ず、誰か!と手を伸ばしてもどこにも届かない。    いつもそこで目を覚ました。  もって一年、どんなに長くとも二年。そう医師から告げられた時、ただ淡々と「そうですか」と事務的な返事をしたのを覚えている。医師はどんな表情をしていただろうか。悲しそうな、苦しそうな、ぼんやりとした輪郭をなぞろうとして思考を巡らせる。  短い命であることは、生まれた時から決まっていたものだ。自分の体がもう保たないことくらい、わざわざそんな深刻な顔で言われなくとも分かっていた。  医療技術は日進月歩の勢いで進化し続けている。皮肉にも、この戦時下においてはなおのことだ。カリュクスの才も加わり、この数年で目覚ましい進歩を見せていた。  もっとずっと幼いころ、生きている間に治療薬が開発されるかもしれない。だから希望を捨ててはならないよ、と言われた。偶然、たまたま、そうして救われた命もあったのだろう。だが、ついぞカリュクスの元に、そんな都合のよい奇跡は巡ってこなかった。  待っていても誰も助けてはくれない。だから自らを救うには進まなくてはならない。改めて強く誓いながらも、悪夢にうなされるようになったのは、まさにその日からだった。  そうして飛び起きた朝は、言うまでも無く最悪だ。心臓はうるさいほど脈打ち、寝汗で髪が頬に張り付く。平静を装いながらも、恐怖はしっかりとカリュクスを蝕んでいった。   睡眠薬の助けを得ても結果は変わらず、ベッドに横になることすら次第に億劫になっていった。そもそももう長くない命だ。今更きちんとした睡眠をとったところで寿命が延びる訳でもない。ならば、いっそのこと止めてしまおう。  それ以来、仕事の合間に軽い仮眠を取るだけになった。日ごと目の下の隈は酷くなる一方で、落としたペンや本の音で目を覚ますことも少なくなかった。だが、そうして夢を見る前に目覚めてしまえば悪夢に出会うことも無い。  永久人となったカリュクスは、走らせていたペンを止めた。 もう、ここに死の恐怖ない。眠りについたまま、もう二度と目を覚ませなくなるではないか。そうした漠然とした不安を抱えながら眠りにつく必要は、もうないのだ。  カリュクスは作業を止め、ペンを胸元のポケットにかける。  永久人は夢を見るのだろうか。見るとしたらどんな夢なのだろうか。  この期に及んで浮かぶ問いかけにな苦笑しながら、ふう、と長く息を吐き出す。さっそく問いの答えを探しにいくとしよう。  カリュクスはゆっくりと目を閉ざし、安息の眠りの底へと潜っていった。

2025/5/3