その日は珍しく快晴の朝だった。長く続いた雷雨は去り、気持ちの良い、柔らかな日差しが窓辺から差し込んでいる。いつもならここは、薬と消毒液の匂いに包まれた病室だ。だが、この日ばかりは、ほのかにカーテンを揺らす風が、爽やかな春の香りを運んでくれていた。  そんなカリュクスの病室に、穏やかさとは真逆の、重厚な鎧やローブを纏った人物たちがいた。剣を腰に提げた騎士が扉の傍に二人、魔導書を持った命術士が窓際に一人。身に着けた装具には、アレクサンドリア王家の紋章が刻まれている。紛れもなく、王家の近衛兵の印だ。  ベッドに腰かけたカリュクスは、そわそわと落ち着きなく彼らの姿を伺う。鍛え上げられた肉体は微動だにせず、時折響く武具の硬い金属音が、よりいっそう緊張感を際立たせていた。  急遽だが面会希望の者がいる、と主治医から伝えられたのが、今朝の回診時だった。どうせいつもの如く、どこかの研究機関や商会のお偉方のご機嫌伺いだろう。せっかくの快晴に水を差され、カリュクスはふてくされた。しかし、「王家よりの使者だ。他言しないように」との去り際の一言で、その感情もすべて吹き飛んだのだった。  軽快なノック音が響いた。思わずびくりとカリュクスの背筋が跳ねる。一瞬の緊張が奔ったが、開いた扉の先から現れたのは、壮年のミララ族の男性だった。彼は一礼をしてから扉をくぐると、柔らかく笑った。 「カリュクス殿、突然の訪問になってしまい申し訳ない。私はトゥフト、王家に仕える命術士であり、スフェーン王女殿下の家庭教師を務めている。貴殿の功績を称え、国王陛下ならびに王女殿下が、ぜひ一度お会いしたいと仰せだ」  開いた口が塞がらない、とはまさにこういう時のための言葉なのだろう。カリュクスは混乱する頭で、トゥフトの言葉をもう一度なぞった。国王陛下と王女殿下、その二人が面会を望んでいる。カリュクスは、これまで数々の論文を発表していた。それが王家にまで伝わっていることも耳にしている。だが、直に拝謁する機会が訪れるとは、夢にも思っていなかった。 「その、とてもありがたいお話ですが……どうして、こんな急に……」  謁見となれば事前に正式な書状なり、通達が届くはずだ。王家がそういった手順を飛ばし、さらに書状などの文書という形を残さず、口頭のみの依頼をしてまでカリュクスに会おうとしている。  その当然の疑問に、トゥフトの顔が曇った。トゥフトは何か言葉を紡ごうとしては、その度に固く唇を閉ざし、俯いた。背後に控える騎士たちの表情も、先程よりも険しさを増している。彼らの姿を前にしたカリュクスの脳裏に、ある言葉が浮かんだ。  世界は日を追うごとに雷の力が増し、環境は厳しくなっていく。エレクトロープのおかげで生活は保たれているが、それも限りある資源だ。人々の生活が豊かになるほどに、国家間の摩擦や、軋轢は増していく。特にここ二年ほどは、もはや小競り合いや、僻地での衝突だけでは収まらなくなっているのだ。大半の時間を病院で過ごすカリュクスの元にさえ、ほの暗い噂は届いていた。  浮ついていた心が、すっと静まる。王家や国がカリュクスに何を期待しているのか、彼らの顔がすべてを物語っていた。カリュクスは大きく息を吐き、居ずまいを正す。 「喜んで、お受けいたします」  ただ、真っすぐに、淀みなく答えるカリュクスに、トゥフトは目を見開いていた。そして、カリュクスの前へと歩み出ると、ゆっくりと首を垂れた。柔和なトゥフトの顔に、暗い影が落ちる。 「聡い子だ、どうか許しておくれ」  カリュクスは、ただ静かに首を横に振った。 「だが、きみに会えることを、心待ちにしておられるのも本当だよ。特に王女殿下はね」 「……はい。僕も、とても楽しみです」  優しく微笑むトゥフトに、カリュクスも同じように微笑む。窓辺から差し込む日差しが、あたたかく二人を照らしてくれていた。

それから間もなくして、数日に一度トゥフトによる礼儀作法の授業が始まった。彼がカリュクスの元へと遣わされた理由のひとつが、この作法の授業のためだ。一般常識における礼儀作法とはまた違い、王族が相手となれば、より厳格な決まりが定められている。拝謁までは、ひと月ばかり。技術書だらけの部屋に、見慣れない作法の本が続々と仲間入りしていった。  さらに必要なのがもうひとつ、最礼服である。とはいえ、今回は表向き〝国王と王女による入院患者たちへの見舞い〟の形を取ることとなっている。いつも通りの過ごしやすい服装で構わない、とトフゥトからは伝えられていたが、カリュクスはそれを断った。  たった一度だけ。されど、きっと一度きりの機会だろう。仕立ててもらった礼服は、深い青を基調とした落ち着いた色合いだ。淡い薄青の髪がより引き立つ。慣れない服に戸惑いながらも、重さを可能な限り軽減してもらった服は、とても着心地が良い。  髪を軽く整え、磨き上げられた靴を履いて鏡の前に立つ。そこに映る姿は、相も変わらず青白い顔をした病弱な幼い子供だった。けれどほんの少しだけ、礼服はカリュクスを大人にしてくれる。 「ああ、とても良く似合っている。見違えたよ」  着替えを手伝ってくれたトゥフトにそう言われ、カリュクスはこそばゆくて堪らず視線を落とした。それと同時に、ああ良かった、と安堵の息をつく。 もう一度、背筋を伸ばして鏡を覗く。これは、ただの虚勢かもしれない。それでも、この服を着ている間だけは、誇り高くありかった。

いよいよ訪れた当日は、残念ながら好天に恵まれることはなかった。いつもの見慣れた暗雲の朝。遠くで雷鳴が響いている。降り出すのも時間の問題だろう。  カリュクスは朝の投薬を終えると、点滴を外してもらった。慣れた手付きで礼服に着替え、病弱な少年から天才技師へと姿を変える。確かに緊張もある。だが、それ以上に希望に溢れた心は軽やかだった。  支度を終え、カリュクスはトゥフトと共に、一足先に医長の執務室へと入る。国王たち出迎えには、医長たちが向かっているので、今はしんと静まりかえっていた。 最奥には執務机、その手前に来客用の長テーブルとソファが設えられている。王族を迎え入れるとあって、どこも鏡のように磨き上げられている。  時計の針の音が、嫌に大きく聞こえた。カリュクスは緊張を紛らわせようと大きく息を吐くと、今日の日程をなぞる。まず、この部屋で挨拶を行い、国王とカリュクスで面会。その間、王女は入院患者への見舞いへと出向く。その後、カリュクスと王女との茶会が催される。    カリュクスの仕事を見たいというスフェーン王女たっての希望であり、歳の近い者同士の方が気兼ねなく過ごせるだろう、という国王の配慮だった。  長いような短いような時間が過ぎると、ざわめきと靴音が聞こえてきた。いよいよだ。カリュクスが居ずまいを正すと、扉が勢いよく開いた。 「失礼する!」  大きな声と共に、その声に相応しい体躯を持った男が現れた。出で立ちからして騎士団長のオーティスだろう。彼は厳しい顔つきで部屋を一巡し、トフゥトとカリュクスを捉えると、先ほどとはうってかわって騎士らしからぬ笑顔を浮かべた。 「おお、貴殿が噂の天才少年か! さあ、国王様と王女様が参られるぞ」  そう言ってオーティスが扉から一歩下がり、腰を折る。ざわめきが消え、一瞬の静寂のなかから国王が姿を現した。艶やかな長い髪を束ね、細身の体にまとった礼服の胸元には、アレクサンドリアの国章の刺繍が刻まれている。同じ礼服に身を包んでいるとはいえ、カリュクスの姿とは大違いだった。  続いてその後ろから、王女が顔を出した。外出用のひざ丈のドレスは淡い若草色で、瞳と同じ色合いが美しく、その場所だけ花が咲き誇っているようだった。 「カリュクス殿」  トゥフトに小突かれ、はっとする。慌てて習った作法を記憶から引っ張り出し、ぎこちない所作で深々とお辞儀をした。 「ぼ……私はエレクトロープ技師のカリュクスと申します。本日はお会いできて、とても光栄です」  間違ってはいないだろうか、失礼な所作になっていないだろうか。静寂のなかで不安ばかりが募る。カリュクスは思わず、ぎゅっと目をつぶった。  ゆっくりと靴音が近づいてくる。靴音がすぐ目の前で止まると、ふいに暖かな温もりが手に触れた。驚いて顔を上げる。そこには膝をついた国王が、カリュクスの手を取って、優しく包み込んでいた。 「私も会えて嬉しいよ。怖い顔をした奴らばかりですまないね」  温もりがグローブ越しに伝わって来る。カリュクスは大丈夫だと、首を振って応えることしか出来なかった。 「スフェーンと申します。よろしくね、カリュクス」  国王の隣に歩み出たスフェーンは、微笑むと流れるように美しいカーテシーを披露した。二人のくれた温もりのおかげで、強張った頬がいくらか和らいでいく。 「スフェーン様、そろそろお時間です」 「わかった、ゼレニア。それじゃあ、またあとでね」  スフェーンは小さく手を振って、副団長ゼレニアと医長たちと共に見愛のために病棟へと去って行った。  その背を見送り、一同が席に着く。扉の外ではオーティスたち騎士が警護についているが、今この部屋には国王とカリュクス、トフゥトの三人だけだった。  カリュクスはこのひと月あまりで書き上げた数々の計画書や、図面を机上に広げる。機械兵の投入による戦力増加、防衛機構の整備、そして今まさに取り組んでいる、魔法障壁の強化についての説明を行った。  国を覆う障壁は、主に魔物に対して効力を発揮する。平時であれば充分だが、戦時となればそうはいかない。大国同士の戦争となれば、間違いなくエレクトロープ製の兵器が投入されるだろう。今のアレクサンドリアでは、あまりに防備が薄すぎる。  だが、障壁の機構は王城に設置されている。王家や重臣たちの許し無しに、手を加えるとは出来ない。いくら天才と持て囃されようとも、こんな子供に許可を下すとなれば、そう簡単なことではないだろう。ましてや建国以来、初めてのことだ。 「どうか、お願いします。私にもこの国を守らせてください」  静かに耳を傾けていた国王が、ゆっくりと視線をカリュクスに移す。  その瞳は、哀しみと痛みと迷いに揺れていた。だとしても、引くことはできない。 「戦争も、病も、待ってはくれない! だから……っ!」  身を乗り出し訴える。たとえ残りわずかな命だとしても、それすらも燃やし尽くす覚悟だった。 やがて国王は長く息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。 「分かった……少し時間はかかるだろうが、必ず説得してみせよう」 「ありがとう……存じます」  子供を戦争に巻き込むようなことを、許すような方ではない。それは全ての民が知っている。きっと迷いは、完全に消えることはないのだろう。そうであったとしても、応じてくれた言葉にカリュクスは深々と頭を下げた。

病室の小さなテーブルの上に、見慣れないティーセットと茶菓子が並んでいた。茶葉はトフゥトの故郷トレノで作られているもので、薬湯に近いものだ。そこに蜂蜜を加え、子供の舌でも飲めるように調整されている。苦い薬に慣れたカリュクスには、とびきり甘く感じた。  スフェーンの希望通りに、ひとしきりエレクトロープや技師の仕事についての説明を終えた。だが、果たして面白かったのだろうか。国王との面会を無事に終えて肩の力が抜けたせいか、ついカリュクスも饒舌になってしまった。彼女は絶えず目を輝かせ、あれこれと質問をし続けていたから、きっと大丈夫だろう、と信じたい。 「お父様とは、どんな話をしたの?」 「えっと……」  思わず口ごもる。王女という立場上、いずれは耳に入る話だろう。だが今ここで、どこまで話すべきか、隠すべきか。スフェーンの脇に控えるゼレニアと、隣に座るトゥフトに目配せする。 「戦争の話、だよね?」  だが、二人が逡巡している間に、スフェーンが答えを突き付けられてしまった。カリュクスは観念してそっとカップを置くと、ゆっくりと頷いた。 「やっぱり。あのね、カリュクス。嫌だったら断ってくれていいんだよ。まだ幼い子供のきみが背負う必要なんて……」 「ちがう!」  思わず声を上げてしまった。こんな無礼な行為は許されない。頭で理解していても止まらなかった。 「違うんです。僕が、僕の意思で頼んだんです……! 僕には時間がない。あと数年しかないんです。大人になるまで待つなんて、出来ないから」  息が苦しい。ぎゅっと胸元を掴む。 「病や事故による死なんて、誰も望んでいない。戦争なんてなおさら……そんな理不尽で、命が失われるべきじゃない。だから……っ!」 「カリュクス殿、少し落ち着きなさい」  トゥフトの言葉で、熱が引き戻される。荒くなった吸気を抑えようとうずくまる背中を、トゥフトの手が優しく撫でてくれた。 「ごめんなさい」  頬を伝う汗を拭いながら、カリュクスは視線を落とした。 「……すごいなぁ、カリュクスは……私は自分が王位を継ぐ姿すら、まだ想像もできないよ」  スフェーンは先ほどの行いを咎めるでもなく、少し寂しげな口調で続けた。 「きみに誇れる王様に、なれるかな」   この世界に、〝絶対〟はない。どれだけ念入りに準備をしていても、思いもよらない結果が生み出されることだってある。けれども、彼女はどんな時も笑顔で民と向かい合ってきた。その事実は、決して消えない。 「なれます、きっとスフェーン様なら。遠くからだけど、僕もずっと見て来たから」 「……ありがとう。きみに背中を押してもらえるなら自信が持てるよ」 「スフェーン様が即位する頃には僕はもういないけれど、だからこそ、残したいんです。ひとつでも多く、未来のために」 「でもどうか、無理はしないでね。時には息抜きも大事だよ?」 「息抜き……」  普段は息抜きにどんなことをするのかと問われたが、〝本を読む〟以外になにも思いつかなかった。その本も技術関連のものばかりで、物語ものも嫌いではないが、最近ではすっかり手に取らなくなってしまっている。この身体のせいで、学友はおろか友人と呼べる人物もおらず、外出も限られる。 「……でも、もし叶うなら、一度でいいから建国祭に行ってみたいです」  建国祭は、アレクサンドリアで最も盛大な祭りだ。城下は花や飾りで鮮やかに彩られ、大通りにはたくさんの露店が並ぶ。祭りの期間は特別に王城の前庭が解放され、そこでは歌や踊り、劇などが披露されるのだ。誰もかれもが歌い、踊り、笑い合う。  カリュクスにとっての世界は、ベッドの上と窓から見える城下の景色だけだ。けれど、この時期だけは違った。最も死に近い場所で生きるカリュクスの元にも、窓を通じて想いが流れ込んで来る。響く音や、香りや、色が、心を躍らせた。許されるならば、一度でいいから自分の足で歩き、肌で感じたい。 「それじゃあ、来年の建国祭は一緒に行こう!」 「しかし、スフェーン様それは……」 「ゼレニアやトゥフト先生、それに城の医官も一緒なら安心でしょ?」  ね? と念押しするスフェーンにはゼレニアはため息を零しつつも、それ以上の追及はしなかった。 「……はい! 喜んでお受け致します」 「では、レディのエスコートが出来るようにならなければいけませんね。今のカリュクス殿では、殿下のお相手をするにはまだ不安かと」 「う……精進します」  笑い声が響く。暗雲に覆われる世界でも、ここには確かに温かい陽だまりがあった。こんな日々がずっとずっと、続きますように。そして、どうか来年の建国祭を無事に迎えられますように。カリュクスは胸のなかで小さく祈った。

けれど、そんな未来はやってこなかった。平穏は一瞬で崩れ去る。  戦争が始まったのだ。突如として魔法障壁が打ち消され、不意打ちを食らったアレクサンドリアは、瞬く間に戦火に飲み込まれた。そして、その火は国王夫妻の命をも燃やし尽くしてしまった。  悲しみに暮れる間もなく、スフェーン王女が王位を継いだ。王となるには、あまりにも若い。  カリュクスは、国防のために邁進した。しかしながら、いくど障壁の修復と強化を行っても、その度に打消す魔法が編み出されてしまう。日を追うごとに戦没者が増え、葬列が毎日のように通り過ぎていく。  だが、悲劇はそれで終わりではなかった。争いが激化するなか、世界は恐ろしい雷に襲われた。瞬きの間に命がまたひとつ消えていく。  敵も味方も、善人も悪人も関係ない。雷は無慈悲に降り注ぐ。美しかった城下は崩れ去り、瓦礫の山となった。大国のアレクサンドリアですら、この被害だ。小さな村落などは、跡形もないだろう。 守らなければ。  何としても国を、人を、そして王を守り、残さなければ。こんな理不尽に奪われてなるものか。 「僕は……俺は諦めない、絶対に」  カリュクスは唇を噛みしめ、忌々しい暗雲を睨みつけた。

2026/9/26

あとがき