アーモロートを訪れたのは、いつ以来だったか。幼いころは父母と共にこの街で過ごすことが当たり前だった。いつか二人のように研究員となり、世界創造を担う立派なアーモロート市民の一員となる。そんな思い描いていた未来は、しかし、一瞬にして打ち砕かれた。  そして、言われるがまま母の手を取り、逃げるようにして設立間もないパンデモニウムへ見習いとして入る。その後、職務で何度かこの街を訪れることはあったが、生家にも、父にも近寄ることは一度としてなかった。  そもそも、いち獄卒が長官であり、議長であるラハブレアと直接関わることはない。あったとしても旧知の者か、あるいは各層の獄卒長くらいだ。だが、今回ばかりはそうはいっていられない。現状、パンデモニウムの中でまともに動けるのは他でもなくエリクトニオスしかいないからだ。  例の一件で、多くの獄卒たちが治療のためアーモロートへと移送された。幸か不幸か、素体として使用する目的があったために、みな命に関わるような怪我もなく、今では半数ほどの獄卒が職務へ戻っている。しかし、この一件を最初から最後まで見届けた者として、これらを報告書としてまとめられるのはエリクトニオス以外にいないのだ。  今もラハブレアもエリディブスであるテミスも、パンデモニウムの再建に尽力している。だが、いつまでもこちらに付きっきりという訳にもいかない。委員会として、議長と調停者の職務を果たすために、二人はアーモロートとパンデモニウムを行き来きし続けていた。  黄昏に沈むアーモロートには、創造生物たちの唸り声も、羽ばたきも、牙を研ぐ音も聞こえない。すっかり、獄卒としての仕事に慣れ親しんだエリクトニオスにとって、この街は静かすぎるほどだった。  エーテライトの前で大きく深呼吸をすると、慣れないフードを目深にかぶり目的の場所へと足を向けた。パンデモニウムを覆う禍々しさとは正反対に、威光を放つカピタル議事堂は目が眩む。あるいはこれから会うべき人物に対する、緊張か。妙に汗ばむ手を握りしめ、指定された時間通りに訪れると、議事堂内の大扉が開いた。  重厚な金属音と共に、足音といくつかの話声。見慣れた黒いローブの胸元には、他の者とは一線を画する赤い仮面。この星を代表たる十四人委員会の面々が、確かに目の前にいた。その中に、見慣れた白いローブを見つける。並んで歩く他の者より頭ひとつ、いやふたつ分小さな青年は、こちらの姿に気づくと柔らかく微笑み頷いた。見知った顔がひとつあるだけで、ずいぶんと心強い。ほっと息を吐く。しかし、今の目的は彼ではない。 「ラハブレア議長」  エリクトニオスの言葉に足を止めたラハブレアに歩みよると、報告書を手渡した。 「まだ辺獄層での経緯のみになりますが、こちらが報告書となります。この内容で問題ないか一度ご確認をお願いします」  パンデモニウムの一件で、確かにラハブレアには父として歩み寄れるようにはなった。だが、今は上司と部下だ。父子としての情も、パンデモニウムでの件も、母の真相も、今は関係はない。  ラハブレアは一瞥すると受け取った報告書を、その場でめくり始める。何も言わずに立ち去るかと思ったが、予想外の行動に戸惑いと気まずさで胃がひっくり返りそうだ。仮面とフードで覆っても、その身が纏う威厳は議長そのものである。 「……よくまとまっている」 「えっ」  思わぬ言葉に、思考が止まった。聞き間違いでなければ、ラハブレアの口から放たれたのは褒め言葉だ。なぜ、どうして。疑問が脳内をぐるぐると回り続ける。 「パンデモニウムにはいつ戻る」 「あっ……と、明日、の夜には戻る……ります」 「そうか」  つい出かけた父に対する物言いを引っ込め、どうにかこうにか冷静さを取り戻す。この後は、テミスと共に久方ぶりのアーモロートを散策したり、夕飯を食べたりと、ごく普通の友人としての余暇を過ごす予定ではあった。そこまで伝えるべきか、そもそもなぜそんな問いかけをしたのか、次の言葉を探していると、重たい沈黙を切り裂くように突如明るい声が割って入って来る。 「やぁ、君がエリクトニオスか」 「アゼム……っ……様!」  ひょっこりとこちらを覗き込むように顔を出したのは、十四人委員会の一人であり、テミスの友人でもある人物だった。 「あれ、ラハブレア、今夜は息子さんと一緒に夕食を食べるんじゃなかったの?」 「は!?」  口をついて出た言葉を、慌てて手でふさぐ。あのラハブレアが、ただでさえ他者と極力関わろうとはしない人物が、夕食に誘うだなんて。 「ラハブレアったらさ、最近やたらと料理に関するイデアを借り……」 「お前はまた余計なことをっ!!!」 「いっっっっっっったぁ!!!」  ゴツン、と重々しい音と共にアゼムの頭部が揺れる。 「失礼した。ほら行くぞ」  さらに割って入って来たエメトセルクに即座に首根っこをひっつかまれ、アゼムはズルズルと引きずられるようにして連れ去られていった。確かにテミスから聞いていた通り、いや聞いていた以上の”問題児”であることは間違いないようだ。二人やりとりに呆気に取られていると、ラハブレアの咳払いが響く。ひっかき回された場の空気が、再び引き締まった。 「……気が進まないのであれば、無理に付き合う必要はない」 「ああ、ええと……このあとはテミ……エリディブス……様と用事が」  ちらりとラハブレアの横に控えるテミスの顔を伺うと、その口元は楽し気に笑っている。 「街の散策は明日でも構わないよ。せっかくの機会だ、今夜くらいは親子水入らずで過ごしてもいいんじゃないかい?」  そして、エリクトニオスの隣にやってくると静かに耳打ちをした。 「ラハブレア、この後の時間を作るために急いで仕事を片づけていたんだよ」 「っ……」  そんな台詞まで言われてしまっては、断るわけにも行かない。そうだ、ただ食事を取るだけだ。たいした会話もないだろうし、あとはさっさと寝てしまえばいい。それだけのことだ。 「わかった、行く」 「そうか。では、私は先に行っている」  ラハブレアは返事を聞くと声色ひとつ変えず、そそくさと立ち去っていった。緊張が解け、ようやく空気が身体を巡る。 「それじゃあ明日の朝、自宅まで迎えに行くよ」 「ああ、できるだけ早めに頼む……」  今すぐにでもテミスに縋りつきたい気持ちを抑え、がっくりと肩を落としながらエリクトニオスは記憶の奥底に残る生家へと歩き出した。

根っからの研究者の両親を持てば、自ずと生活は本や資料で埋まると言うもの。創造生物の研究資料や関連書、魔導書。そうした書籍はエリクトニオスにとって身近なものであり、絵本代わりでもあった。  屋内の様相は出て行った日からほとんど変わっていない。自宅に戻ってもなお仕事や研究を続けているのであろう、そうした書類の山が以前よりも増えている。しかし、やはり母の私物は残っていなかった。まるで最初からいなかったかのように、母の面影はどこにもない。真実を知った今なら、そうあるべきだとは理解できる。いっそのこと家自体を引き払ってしまってもよかっただろうに。  そんなことを考えながらぼんやりと本棚を眺めていると、奥から声がかかった。昔と変わらない落ち着いた居間の食卓に上がっていたのは、ハンバーグにパスタ、フライに、スープ、パン……とうてい二人で食べる量ではない。そして、どれもがエリクトニオスが子供の頃の好物ばかりだった。 「ふっ……はは……」  確かに好物であるが、それは子供のころの話だ。もちろん、今でも好みのものもあるが、それにしたって量が多すぎる。思わずこみ上げた笑いを素直に吐き出すと、向かいに座ってさっそく頬張った。この星でもっとも偉大な創造者が創る料理は、やはり非の打ち所がない。もちろんラハブレアから食事についての何がしを語られることはなく、たいした会話もないまま黙々と食事を口に運んでいく。ただ、いまこの卓上にあるものが、彼が何を想い、何を考えて至ったのか、その全てを物語っていた。

「食べすぎた……」  夜着に着替えてベッドに寝転がる。エリクトニオスの部屋は、やはり子供のころのままだった。正直に言えば、残っているというだけでも驚きだ。すぐにでも余計なものは処分し、研究資料の倉庫にでもされていると思っていた。しかし、実際は違った。部屋は綺麗に整えられ、幼いころに読んだ本も丁寧に棚に収められている。枕元にはお気に入りだったぬいぐるみたちが、いまも主人の帰りを待ち続けていた。 「懐かしい……」  手にしたぬいぐるみは、どれもこれもラハブレアの創りだした炎獣たちがモデルになっている。これこそ、彼にとって無駄なもののひとつだろうに。エリクトニオスにとっての父が幼少の時間で止まっていたように、ラハブレアもまた、彼の中では幼い息子のままなのだろう。  かつて、父の、ヘファイストスの燃え上がる瞳が恐ろしかった。かけられる言葉が、重々しく苦しかった。しかし、憎しみと怒りを失ったいま、記憶にある父の姿は果たして本当にそうだったのだろうか。  成果が出なくとも、諦めることなく魔法の手ほどきをしてくれた。エリクトニオスのためにと、手ずから作り上げたクリスタルを贈ってくれた。もしもそこに情が無いのなら、とうの昔に見放されていたはずだ。それでもあの人はエリクトニオスへ向き合い続けてくれた。実に不器用で、不格好で。それがあの人なりの愛情だったのかもしれない。  いくら考えたところで、ヘファイストスの心の内は分からない。けれど、あの地獄の底で交わした言葉は真実だ。止まっていた時が少しずつ動き出す。もう二度と足を踏み入れることはないと思っていた家は、まだ帰るべき場所なのだと、出迎えてくれた人と物が教えてくれた。  胸の中で張り詰めていたものが少しずつ解けて、瞼が重くなっていく。きっと食べ過ぎたせいだろう。おかげで、今夜はゆっくりと眠れそうだ。枕に頭を鎮め、部屋の灯りを落とすと、誘われるままに宵の底へと落ちて行った。

2022/9/19

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