微睡みの底から浮き上がるように、気怠げな瞼を開くと最初に視界に入ったのは暗闇だった。まだ何もない空っぽの世界。それを空虚と称する者も居るだろうが、同時に無限の可能性を秘めた場所である。そんな世界の底に、少年の小さな身体は横たわっていた。  少年は手と認識するものを持ち上げ、自身の視界の前へと持ってくる。白く細い指。長期の投薬治療によって肌に艶はなく、爪もところどころ欠けてしまっている。そして、それは間違いなくカリュクスと呼ばれる少年の手であった。  カリュクスはじっとその手を見つめながら、開いたり握ったりを繰り返す。視覚、触覚、聴覚。肉体を持っていれば当たり前のように得ていた情報が、正しく再現されている。  ひとまず問題はなさそうだ。カリュクスは上体を起こし、長く息を吐く。と言ってもそれは肉体を持っていた頃の真似事にすぎない。無意識に出たそんな安堵の息に、思わず自嘲気味に笑った。もう、どこにも病に侵された身体は存在しない。痛みも苦しみもない。死に怯える日々もない。 「やっと……やっとだ……」  震える手で両の肩を抱きしめる。ふつふつと湧き上がる歓喜と興奮を、カリュクスはひとり噛みしめた。打ち勝ったのだ。怯え嘆くことしか出来なかった病を乗り越えたのだ。従来の枠を超え、新たな人として再び歩き出すのだ。  ふと思い立って、首のカテーテルに触れる。それはカリュクスにとって命綱であったものだ。もはや食事すらまともに摂取できくなった身体では、投薬のみならず栄養や水分の補給も全てこの細い管に頼るほかなかった。ゆえに、自己の認識を確かなものとするためには、首に埋め込まれたカテーテルは欠けてはならない要素であったのだ。  失敗すれば絶対的な死が待つ。わずかな不安要素をも取り除き、正確性の保持をしなくてはならない。だが、永遠を手にし、肉体を手放したいま、もはやそれは不要の存在だ。  初めは手や腕に、高濃度の薬を投与するようなってからは首に。生まれてからずっと続く薬と繋がれたカテーテルに、幾度も苛立ちを覚えた。仕方がないことだと理解していても、逃さないとばかりに絡みつく鎖のようだった。だが、同時にカリュクスの命を繋ぎ留める楔でもあり、少なくない時を共にした存在でもあった。  憎悪とも愛着とも呼ぶそのカテーテルから手を下ろす。自己を認識できさえすればいい。わざわざ削除するのも時間の無駄だ。カリュクスはそう結論付けると、早々に思考を切り替え、立ち上がる。  肉体による寿命が消え去ったいま、時間はいくらでもある。しかし、壊れかけた世界の時は刻一刻と進み続けたままだ。やるべき事は果てしない。 「さあ……はじめるとしよう……」  すべてが失われる前に、人を、世界を、管理された永続へと繋ぐため。カリュクスはいまだ闇に覆われた世界を静かに見据えた。

2025/4/20

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